07年途中までメジャーリーグのシカゴ・ホワイトソックスでプレーした井口資仁選手が5年ぶりに日本球界に復帰することになった。日本の報道によると、千葉ロッテ・マリーンズと3年契約、出来高を合わせると総額6億円(推定)の年俸に加え、将来の監督候補としても期待されているという。04年まで在籍していた古巣のソフトバンクではない球団から、破格の条件で迎えられたのは、重光昭夫オーナー代行が井口選手と同じ青山学院大学出身者で、フロント陣には元ソフトバンクの人間がいるからとも言われている。
今オフの井口選手に関しては、一部のメディアが日米複数球団による“争奪戦”と報じていたが、本当に井口選手が複数のメジャー球団から40人枠の身分を保障されるメジャー契約のオファーを受けていたら、たとえ1年契約だったとしてもアメリカでプレーすることを選択していただろう。なぜなら、過去2年、特に昨季の井口選手は大怪我で本来の力を出し切れずに悔しい思いをしており、今季はリベンジの年として位置づけていたはずだからだ。一度はメジャーリーガーとしてプレーした人間ならそういう強い気持ちをもっていても不思議ではない。
それに、個人的には井口選手はまだまだメジャーに通用すると思っている。働き盛りの33歳。わずか4年で日本に戻るような選手ではない。
04年のオフにソフトバンクからFAとなり、ホワイトソックスと2年契約(3年目は球団オプション)を結んだ井口選手が最も輝いたのは、メジャー移籍1年目の2005年だ。正二塁手、試合状況によってさまざまな役割をこなさなければいけない2番打者として135試合に出場し、打率・285、15本塁打、71打点を記録し、球団88年ぶりのワールドチャンピオンに貢献した。当時、日本人選手が優勝リングを獲得するのは、ヤンキースの伊良部秀樹投手に次ぐ2人目だったが、実際にシリーズに出場した選手としては初の快挙。翌年には138試合、打率・281、18本塁打、67打点と安定した成績を残し、3年目の契約も勝ち取った。
しかし、ここで井口は大きな岐路に立つ。契約最終年となる2007年は、今後の大型契約を得るために大切なシーズンだったが、実は、開幕前に井口選手はホワイトソックスから3年1500万?の好条件を提示されていたが、それを却下したのだった。通常なら交渉を重ねて双方の歩み寄りがあるのだが、そうならならなかったのは、球団側には精一杯の条件を出したという自負があり、井口選手側には3年目も安定した成績を残せば、複数球団を巻き込んだマネーゲームに持ち込めるという自信があったからに違いない。
果たして、勝負の年は幕を開けたが、左手親指のけがで序盤から打率は2割5分前後と低迷。守備でも精彩を欠き、7月末のトレードデッドラインを前にフィラデルフィア・フィリーズへ放出された。開幕前に提示したオファーを蹴られたホワイトソックスとしては、シーズン終了後にFAでチームを去ることが決定的な選手を残すはずはなかった。
移籍後の井口選手は勝負強さを発揮し、ベンチ要員ながら2度目のプレーオフにも出場したが、シーズン終了後はホワイトソックスを上回る条件を受けることはなかった。それでもロッキーズからは2年契約、フィリーズからも三塁手として同じく2年契約の提示はあったが、選んだのは温暖な気候のサンディエゴ。パドレスと1年契約で合意し、右手のけがも完治させて新しいシーズンに臨んだが、開幕から打撃が安定せず、さらに追い討ちをかけるように6月5日のメッツ戦で走塁で転倒し右肩を脱きゅうする大けが。調整不足と知りながらも2カ月後に復帰したものの、打撃不振は変わらず、9月1日に戦力外を通告された。ホワイトソックスからの3年契約のオファーを受けていれば、たとえけがをしたとしても焦ることなく、翌年に備えることができただろう。不運としか言いようがない。
思い出すのは05年1月27日、USセルラーフィールドで行われた井口選手の入団会見の言葉だ。
「50年代に活躍されたフォックス氏に負けないように自分の持ち味であるスピードを生かしたパフォーマンスをみなさまにお見せしたい」。
59年のリーグMVP、3度のゴールドグラブ賞などを受賞し、殿堂入りした伝説の二塁手、ネリー・フォックスの名前を挙げて、メジャー1年目への意気込みを語った井口選手。もし契約延長に合意していたら、少なくとも2010年までシカゴでプレーしていたことになる。シカゴ初の日本人野手として後世に語り継がれる選手になっていた可能性は十分にあった。
井口選手の日本球界復帰。メジャーリーグの舞台でもっと暴れる姿を見たかった者としては心境は複雑だ。
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