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何度聞いても、僕はその言葉を信じることができなかった。そんなことはありえない。あるはずがない、と。
カンザスシティ・ロイヤルズとマイナー契約を結び、招待選手としてスプリング・トレーニングに参加していた野茂英雄投手は、オープン戦で投げた後、決まってこう言った。
「結果は気にしてないですから」
結果を気にしなくていいのは、開幕戦をメジャーでプレーすることを確約された選手だけだ。野茂のようにメジャーの当落線上にいる選手は結果がすべて。その日、その日のパフォーマンスが命取りになる。
野茂が当落線上にいるわけ。それは、メジャー契約を結んでいる選手は球団からその身分を保護される40人に登録されるが、招待選手はそうではないからだ。メジャーでプレーできるのはその中の25人。招待選手は球団から40人の枠に入れるに値する選手、さらにメジャーでプレーするに値する選手であることを約1カ月のオープン戦期間で証明しなければならなかったのだ。
野茂は06年6月には右ひじのクリーニング手術を行っている。右肩に痛みがあった時期もあった。ロイヤルズ首脳陣が野茂の体調を不安視していても不思議ではない。昨年12月のベネズエラでのウィンターリーグで投げたことで契約のオファーが届いたとはいえ、本人もひじ、肩に負担がかからないよう相当の試行錯誤を重ねている。
セットポジションで投げるようになったのはその対策の一つ。野茂の代名詞とも言える“トルネード投法”を捨てた。1年以上も痛みが消えない苦しい時期を経験したからこその決断。8月で40歳を迎える。また痛みが再発したら後はない。そんな思いがあったことは想像に難くない。
オープン戦では、先発候補として登板した4試合で12回を投げて8失点。チーム最多の13奪三振を記録したが、首脳陣を納得させる内容ではなかった。先発失格のらく印を押され、野球人生で未経験の中継ぎ投手に挑戦することになった。
アクシデントに見舞われたのは中継ぎとして3度目の登板となった3月25日だ。トレイ・ヒルマン監督によると、野茂が右足内転筋に痛みを感じたのは先頭打者への最後の投球。6日間で3度の登板は、中継ぎに投手にとっては珍しくない。にもかかわらず、肉体が悲鳴を上げた。肉体の限界と取られても仕方なかった。
もし、野茂がヒルマン監督に報告したことが真実なら、なぜ痛みを感じた瞬間に降板を申し出なかったのだろうか。「結果を気にしてない」と言うのなら、患部が悪化しないようすぐに治療を受け、次の機会に備えるべきだった。この時点で開幕まであと6日。メジャー昇格に向けてアピールする時間は残されていない。だからこそ、痛みを隠して投げ続けたのではないだろうか。
結果を気にしていたのだ。
3日後、野茂はキャッチボールを再開したが、29日のオープン戦最終戦の登板は無理と判断。アリゾナのキャンプ地でリハビリに専念することが決まった。
プロ生活19年目。日本で78勝、メジャーで123勝を挙げている野茂は、現役を続ける原動力を問われ、こう答えている。
「野球をするのが好きですし、野球をするならメジャーリーグでやりたいですし、うーん、それだけです」
最後にメジャーのマウンドに立ったのは05年7月16日。3年越しの夢をここで諦めるわけにはいかない。
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